ITProのサイトから私の連載記事「ロジカルシンキングとは考え方にあらず」 が公開されました。
もともと、日経SYSTEMSというIT業界向け雑誌のコラムで、ネットでの公開を意図して書いてなかったので、別業界、特にコンサルタントの皆さんにはちょっと挑戦的な内容だったかもしれません。「ロジカルシンキング」をコンサルティング会社で徹底的に叩き込まれ、論理的な考え方を職業上の重要な立脚点としているかたには、「自分の学んだものとは違う!」「異議あり!」と言いたくなったかもしれません。ただ、MECEとかピラミッド・ストラクチャとかロジック・ツリーといった、外資系コンサルティング会社由来の議論のための道具立てのことをロジカルシンキングと呼ぶことは、一般的な認識とは言えません。むしろマイナーな考え方なのかもしれないということをこの機会に指摘しておきたいと思います。
「論理思考とは何か」について、実は一般的な認識はありません。私は以前、「論理的思考力を育成する教育が必要」とする勝間さんに絡んで、この問題提起をしたことがあります。皆、口々に「論理思考力が大切だ」とか、いや、「論理思考力以外にも重要なことがある」とか主張するわけですが、肝心の「論理思考」について持っているイメージがそれぞれ違うので、議論がかみ合わないんですよね。だからこそ「論理思考」が何かを教育で統一するべきかもとさえ思わせる、皮肉な結末です。以下に、私の議論の主要部分を引用しておきます。全体が気になる方はこちらを参照下さい「勝間和代のクロストーク」。
97 Commented by 林 浩一 (2010年2月20日) より抜粋 論理的思考力って何ですか? 論理思考が何かについての共通の理解はないと考えたほうがよいと思います。科学技術・学術系、経営・MBA系、一般知識人で論理思考というものから受ける印象は違うと思いますし、競技ディベートや英語のコンポジションのトレーニングを受けた人など、論理のとらえ方はかなり違うはずです。 私は「根拠をつけて話したり考えたりする」程度の意味で使っていますが、より狭い立場もより広い立場もあります。 A. 最も狭い捉え方は、根拠付けの方法として演繹のみ認めるというものです。数学などではこれですが、現実の問題を考えるには、道具として不足でしょうね。 B. やや拡げたものが、演繹、帰納、アブダクションを使った根拠付けまで認めるものです。ここまで拡げると現実の問題まで扱うことができますが、厳密さはなくなります。 C. もう少し拡げて、そうした根拠付けに基づき、ドキュメントの構成を考えたり、プレゼン、議論をして合意形成を行うまで含めることもできます。私はここまでなら、教育可能と思っています。 D. さらに、起きている現象の因果関係の分析とその一般化、未知の問題に対する解決策の発案、実施計画の立案・検討といったあたりまで拡げることもできます。ここまでくるとコンサルタントや研究者に近づきます。 E. もっと拡げて抽象化すると、知識詰め込み教育のアンチテーゼとしての知識活用重視の教育といったところになります。 ○範囲の違いに加えて押さえるべきポイントがもうひとつあります。 「論理的であるというのは形式の問題であって、内容の正しさと区別して評価する」というところです。理論系の人はこだわるだろうと思います。 1.AならばB 2.BならばC 3.Aだから結論としてCになる。 というのは論理的であるといえます。 しかし、1と2が内容として本当に正しいのか、Aが本当に成り立つのか、について気にしません。もちろん、1と2が正しくなければ3の結論は怪しくなります。
論理についての考え方は本当にいろいろです。自分の知っている「論理思考」こそが正しくて、他が間違っていると根拠なく主張するのは、論理的な態度ではありません。
#失礼。言葉遊びです。でも、これは私の使い方だと問題ないはず…
論理思考についての考え方はたくさんあり、そのどれか一つを正しいものと主張するのは難しい状況です。ですから、どの立場をとるかを明示することが大切だというのが私の考えです。ひょっとすると、外資系コンサルティング会社に由来する「ロジカルシンキング」の意味は、他に比べてもむしろ脆弱な根拠しかないかもしれません。自分が所属していたコンサルティング会社で学んだから自信があるという方もいらっしゃると思うのですが、そこで教えてくれた人の根拠が何かということを順繰りに検討するどうなるかという話です。
多くの場合、教科書として使われるのが、コンサルティング会社出身の方の書かれた「ロジカルシンキング」という単語が含まれる解説書です。しかし、これらの本で「ロジカル」や「論理的」についての立場を表明していることは滅多にありません。これらの解説書の源流をたどっていくと、バーバラ・ミントさんの「考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則」に辿り着きます。この本では、三段論法と演繹と帰納の例を示して理論的な基礎付けとしています。
ところが、これらのもっともらしい道具立ては、実際には数千年前の古典論理学の一部を参考程度にピックアップしたもので、三段論法と演繹はともかく、帰納にいたっては正しいことすら保証されません。それらの例をいくつか示したくらいでは、正直ちょっと根拠脆弱との印象を受けます。古くてもその価値は減じないと言って、こうした古典論理学の道具に立脚し続けるのもよいですが、コンサルティング以外の分野の理論基盤は、19世紀以降に成立した集合論を基礎にした現代の論理学に置き換えられています。私たち自身、中学校の数学で集合や証明などを学んできたはずで、私たちはすでにリテラシーとして、現代の論理学の世界に生きているのです。なので、ここに至って古典論理学を持ち出すのはちょっとどうかと思うというのが、私の率直な感想です。
では、そこまで言うなら、私が上記の記事「ロジカルシンキングとは考え方にあらず」での解説は、いったい何を根拠にしているのかと聞かれそうです。それへの答えというわけでもないのですが、哲学者の野矢茂樹先生のかかれた「新版 論理トレーニング (哲学教科書シリーズ)」の内容の冒頭の部分を引用しておきましょう。
(P.1?P.2) 論理力というのはすなわち思考力だと思われているのではないだろうか。「論理的思考力」とか「ロジカル・シンキング」といった言葉がよく聞かれるように、論理とは思考に関わる力だと思われがちである。だが、そこには誤解がある。論理的な作業が思考をうまく進めるのに役立つというのはたしかだが、論理力は思考力そのものではない。 思考は、けっきょくのところ最後は「閃き」(飛躍)に行き着く。(中略) 思考の本質はむしろ飛躍と自由にあり、そしてそれは論理の役目ではない。 (中略) 論理はむしろ閃きを得たあとに必要となる。閃きによって得た結論を、誰にでも納得できるように、そしてもはや閃きを必要としないような、できるかぎり飛躍のない形で、再構成しなければならない。なぜそのような結論に到達したのか。それをまだその結論に到達していない人に向かって説明しなければならないのである。 ここで重要なのは、あなたがその結論に到達した実際の筋道ではない。(中略)苦労話をするというのでもないかぎり、それをそのままアピールしても意味はない。どういう前提から、どういう理由で、どのような結論が導けるのか。そしてそれ以外の結論はどうして導けそうにないのか。そうしたことを論理的に再構成して説明するのである。 (中略) 論理力とは思考力のような新しいものを生み出す力ではなく、考えをきちんと伝える力であり、伝えられたものをきちんと受け取る力にほかならない。つまり、論理力とはコミュニケーションのための技術、それゆえ言語的能力のひとつであり、「読み書き」の力なのである。 (P.7) 狭い意味では演繹という関係だけを「論理」と呼ぶが、広い意味では、主張と主張の関係、あるいはある主張のまとまり全体とその部分となる主張との関係もまた、「論理」と呼ぶことができる。 それゆえ、広い意味で「論理的」であるとは、さまざまな分野主張のまとまりが、たんに矛盾していないというだけでなく、一貫しており、有機的に組み立てられていることを意味している。
私の記事の説明が基本的に、この理解にそって進められていることはおわかりいただけるかと思います。ただ、私は別に野矢先生がこう書かれているから、そう考えているのでもありません。私がそうであるように、義務教育からちょっと進んだ、述語論理の入り口程度の初歩的な論理学のリテラシーを持っていて、コンピュータによる知識表現などを少し勉強したことのある人が、論理的とは何かを考察すれば、同じような結論に自然に至るのではないかと私は思っています。
論理の手順はフィルターとしてしか働きません。つまり元々言えていることよりも多くのことを言うことはできないのです。ですから、論理的であることはすごいことでもえらいことでもないのです。革新的なアイデアは別のメカニズムによって生み出され、論理はその展開を補助するものにすぎないのです。
ただ、このことは巷に流布している外資系コンサルティング会社由来の「ロジカルシンキング」が重要ではないということを意味してはいません。これまでも、さまざまな場面で有用性を発揮してきましたし、これからもそうだろうと思います。逆に、厳密な意味で「論理的」とは違うところからこの有用さは生じているのかもしれません。ですから、むしろ必要なことは、古色蒼然たる古典論理学の道具に頼ることなく、現代的な論理学の世界とのあいだの整合をうまく取る方法を考えることではないかと私は考えています。
こうした問題意識から、私の本「ITエンジニアのロジカル・シンキング・テクニック〔新装版〕」では、いわゆる「ロジカルシンキング」というものに対して、相応の定義を与えて、集合論をベースにする現代の論理学にもつながりを持たせることにチャレンジしました。ここではアプローチだけを紹介しておきます。
上の記事でも指摘しましたが、本屋さんで「ロジカルシンキング」という名前のついた本を買ってくれば、それは十中八九「論理的な考え方」の本ではなくて、「論理的な説明の組み立て方」の本です。このことから、私は「ロジカルシンキング」は主張の構造化手法と考えるべきであるという立場をとっています。そこでロジカルシンキングの定義は、
「根拠によって結論を支持する構造を作ること (P.39)」
としました。これに加えて述語論理をベースにする論理プログラミングの立場から、合意形成のプロセスを解説するということを試みています。この一連のチャレンジがうまくいったかどうかについては、ぜひ本書を読んでご判断いただきたいと思います。